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前日譚【一話】

時期:3年と少し前の春 視点:なし

――これは、貴方達が出会う少し前の物語。

のどかに晴れた空からは柔らかな日差しが降り注ぎ、温かい風が人々の肌を撫ぜる。

そうして春の挨拶をして過ぎ去った風は、次に木々から花弁を攫うのだ。

ふわり、ふわりと。

流れる風と共に、薄桃色のやわらかな花弁は暫く気ままに空を泳ぐ。

泳ぎ、流れ、そうして――。

行きつく先は砂利道の端。

陰って湿った、その場所に落ちたそれは、もはや誰の目にも留まらない。

砂と泥に塗れ、美しかった薄桃色の見る影もなく、やがて土に還っていくのだった。

            *

「先生……ッ!助けてください!」

慌ただしく一軒の平屋に駆け込んだ男は、開口一番にそう言った。

そんな声を聞き付け、家の奥からは一人の男性が顔を覗かせる。

「おや、そんなに慌ててどうしたんだね」

先生と呼ばれたからには医者なのだろう。

白髪交じりの初老の男性は、客人の様子を見て怪訝そうに眉を顰めた。

「それが、う、うちの子が……、襲われて……怪我を……、兎に角診に来てくださいよ!」

この世の終わりとでも言うように顔面を蒼白にして、”先生“に縋りつく男。

「なるほど。怪我と言うのはどれほどのものなのだね」

「 腕が、腕が……!」

男の訴えに眉間の皺をさらに深くした男性は言葉を続ける。

 

「分かった。……しかしだね、奥に患者が居るんだ。離れられん。その子をここへ連れてくることは難しいかね」

「そ、そんな、無理ですよ!痛い痛いって、とてもじゃないがここまで来るなんて……」

なんとかならないかと食い下がる男に、“先生”は顔を顰める。

「とはいってもね……」

医者の男も歯がゆいとは思っているのだろう。苦々しい顔でどうしたものかと思考を巡らせている。

 

そんな緊縛した空気の中。

この場にそぐわない、少し間の抜けた声が響く。

「先生?お取込み中でしたか」

 

突然の第三者に二人そろってその声の方を見やると、不思議そうに瞳を瞬かせた青年が立っていた。

灰がかった黒から月白色に階調が変化している髪が特徴的なその青年は、物々しい空間に少しばかり瞳を細める。

 

「ああ……!九条君、いい所に来たな」

 

“九条”と呼ばれた青年はその一言で事態を理解したように、表情を引き締める。

 

「怪我ですか、病ですか?」

「怪我だ。だが俺はここを離れられん。キミが変わりに行ってくれるか」

「なるほど。ええ、承知しました」

調子よく進む会話に取り残されている男は、不安そうにおずおずと声を発する。

 

「九条って、あの奇術を使うっていう……」

「ご存じであれば話は早いですね。すぐに案内していただけますか?」

そう穏やかに言う九条。

「でも……」

しかし男の方はと言うと、先ほどまで息巻いていたにもかかわらず、今度は訝しむような顔をして青年を見やった。

「キミ、彼はだね」

「先生、大丈夫ですよ」

何かを言おうとした先生を遮り、青年は穏やかな笑みを浮かべる。

そして、至極穏やかな声音で諭すように言葉を紡いだ。

 

「不安に思うことなどありませんよ、癒すのは得意なのです。それに、ここで時間を浪費している場合ではないのでしょう。さ、案内してくださいますか」

毒気のない微笑みと心が凪ぐような声に落ち着きを取り戻した男は、今度こそしっかりと頷き青年を見る。

「わ、分かりました。こちらです!」

 

その言葉に応えるように青年も頷いた。

 

「では先生、また後程」

 

そう言い、青年らは駆けて行ったのだった。

 

 

            *

 

 

 

「先生、今戻りました」

 

男がここを訪ねて来てから一刻ほど経った頃。

引き戸の音と共に、先ほどの青年が平屋へと帰ってきた。

 

「ご苦労だったね、九条君」

「いえ、お役に立てたのなら何よりです。先生の方は落ち着かれましたか?」

「ああ、こっちの患者も峠は越えたよ」

「そうですか、一先ず安心ですね」

互いに顔を見合わせ、その表情を緩ませる。

 

「それで、そもそものキミの用はなんだったんだね」

「……ああ、いえ。お変わりないかなと様子を見に来ただけでしたから」

「そうか。まあ折角だ、茶でも淹れよう。待っていなさい」

「お気遣いなく」

九条はそう答えるも、先生はそのまま部屋の奥へと消える。

そうして暫くして、お盆に湯呑を二つ乗せて戻ってきた。

 

「本当に茶しかないが」

コト、と机の上に並べられた湯呑からは、心の落ち着くような少し苦みのある優しい茶葉の香りが漂っていた。

「ありがとうございます」

「……それで、子どもの方はどうだったんだね。まあ、キミに掛かれば怪我なんぞ容易いものだろうがね」

「何を仰いますか……」

少しばかり皮肉めいた言葉に九条は苦笑を浮かべる。

「兎も角、怪我はそう重いものではなかったですよ。ただ……」

そこまで言い、言葉を濁す九条。

その様子に、先生もまた表情を曇らせる。

 

「……またか」

「……ええ。傷の具合を見るに、恐らく獣の類ではないようで」

「であれば……、モノノケの類か」

「恐らくは」

そこまで語り、二人そろって息を吐く。

「もう何件目だね」

「さて……ここ最近は多いもので、数えたとてきりがないですから」

「それもそうだ」

そして、二人そろって茶を啜った。

ここ京の都では、ひと月ほどの間妖怪や悪霊による被害が相次いでいたのだ。

やれ襲われただの、やれ祟られただの。ささいなものを取り挙げたらきりがないのだが、しかしこれと言った解決策もなく。

町の人々は困り果てているまま、成すすべがないのが現状だ。

そして聞くところによると、日の本全土で似たような状況に陥っているらしい。

 

「物の怪の類は下手に人間が手を出していいものでもあるまい。共存するしかないと思っていたが……」

「しかし、ああいった存在は人々が恐れれば恐れる程に強さを増しますから。できることなら、早めに手を打っておくべきなのでしょう」

「……なんだね。キミがそんな様子じゃ仕方ないな」

やや他人事な言い方をする九条に対して、先生は咎めるような視線を向けた。

「……ええ、まあ。勿論掛け合ってはいるのですが、中々難しいものですよ。先生のおっしゃる通り、下手に手を出していいものではないですし……。尤も、お上は”民が被害に遭っている範囲で事が済んでいるなら”といった認識なのでしょう」

「まったく酷い話だな。」

先生はぐ、と握ったこぶしを机の上に落とした。

諦念の滲むその姿に九条も瞳を細めつつ、しかし変わらぬ声音で話を続ける。

 

「変化に抗うことを怖がるのは致し方のないことです。目立ったことをして、変に祟られでもしたら……と怯える心理も理解できますから」

「じゃあキミはこのままでいいと?」

「そうとも思っておりませんが」

「歯切れが悪いな。所詮はキミも公儀の人間といった訳か」

「……すみません。今の世に置いては、私共が持ち得る力は僅かなもので」

この九条という男は公家の出であり、武士が政治的権力を握っているこの時代においては自身の力が及ぶ範囲がいかに狭いものであるか理解している。

しかし、先生の鋭い言葉の裏に思いやりが隠れていることを知っているからこそ、九条はやはり苦笑を浮かべることしかできないのだ。

 

「幕府と朝廷が手を取り合えたらよいのですが。……こんなことをお話しても仕方がないですね」

「まったくだ。俺たちのような街の人間からしたら、どこが権力を持っていようが構わんのだからな」

何とも言い難い気持ちを嚥下するように、湯呑に残った茶を飲み下した九条は席を立つ。

 

「とはいえ、先生がお元気そうで安心しました。お茶、ご馳走様でした。では、私はこれで失礼しますね」

「……ああ。また顔を見せに来るといい」

その言葉に笑みを返し、九条は平屋を後にした。

 

            *

 

帰り道。

橙色の夕日を浴びつつ、一人思考を巡らせる。

産まれながらにして特異な力を得ていたこの身。

この力はきっと、何か意味があって神が与えてくださったのだと。そう、長い間考えてきた。

けれど現状は、朝廷の有力家や天皇を御守りするという名目の下、この地に据え置かれているだけ。

勿論それにだって大義はあるが、しかし自分が為し得たいことはそうではなく。

人々が苦しんでいるこの時にも、自分に与えられたお役目は有力者を御守りすることだけ。

そんな現状にもどかしい気持ちと、やるせない気持ちと。

そして、結局のところ何も変えられないでいる自分への不甲斐ない気持ちで嫌になってしまう。

 

(……こんなことで気持ちが波立つようでは、私もまだまだですね)

 

落ち込む気持ちを払うように頭を振り、帰路を急いだ。

どうにも桜の季節は感傷的になっていけない。

美しく花を咲かせ、人々の心を癒し、穏やかにする。

そうして与えるものだけを与えきった後、役目を終えた花はこれまた美しく散りゆくのだ。

人も、そんな風に美しく一瞬を生きられたのなら。どれほどに良かったことだろうか。

 

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